探しにいくよ

ひとりごと。

「正直に言ったら受け入れてあげる保証書」欲しいですか?

こんばんは。

 

めっちゃお久しぶりです。

花粉がひどいです。春近いですね。

 

さて、今日は「正直になる」ということについて、考えてみたいと思います。

 

正直に生きよう、正直に話そう、正直に人と付き合おう。これらのことはよく言われますし、当たり前のようになっています。

それでも、正直になるって意外と難しかったりします。

 

正直に言って、嫌われないかな?

え?って顔をされないかな?

そんなこと思ってたの、と思われないかな?

え、無理だよ・・・って反応が返ってきたら、正直になったことを後悔しそう・・・

 

そんなあれやこれやを、先に目一杯空想して、考えて、想定問答しちゃう人は、正直になれと言われること自体が、本当にプレッシャーになったりします。

 

大丈夫、嫌わないよ。

何を言っても、受け止めるよ。

そう保証してもらえて初めて正直になれるんでしょうし、たとえ「正直に伝えても受け止めます保証書」をもらっていたとしても、それでも正直になれないストッパーのようなものが意識的にも、無意識的にもかかってしまうんです。

 

これを私は、自制心を呼んでいます。

 

人に迷惑をかけたくない。

みんなと仲良くやっていきたい。

だからこそ、自分を見せてはいけないと思っているストッパー。

そりゃ疲れるわけです。誰一人として正直になったらあなたのことを嫌うよ、拒絶するよ、と伝えられたわけではないです。(内心で思っていたり、非言語コミュニケーションで伝えてくれている人はいるのかもしれませんが・・・)とにかく、誰かに不快感を抱かせたくない。なぜなら、誰かに不快感を抱かせた結果、「あなたのせいで私は不快になりました」と表明されたら、自分が傷ついてしまうから。つまり、相手を傷つけるのが怖いのではなく、自分が傷つきたくないからこそ、自分の正直を出せないだけなのです。

 

ここまで書くと、ああなんて自己中心的なんだろうって思いますよね? でも、これって本当に自己中心的なんでしょうか?

 

だって、自分に正直になれない人は、これまで嫌というほど、「正直になった結果がどうなるか」を経験してきているのです。相手が不快そうにする、相手から拒絶される、それらをスルーできず自分が感情的に反射して反応してしまう。そういう自分に自己嫌悪して、落ち込んでしまう。正直になることって、もはや博打の世界のようなものです。自制心と、自己開示との、ぎりぎりの綱渡りゲーム。本当の綱渡りと一緒です。落ちないように、体幹と、足元の体力と集中力は維持しなければならない。でも、それらは最後、渡り切るまで持続しないとならない。正直になることも同じです。ただの一度だけ正直になることも、価値があるでしょう。しかし、肝心なのは、それを維持して、人生のゴールまで維持できるかどうかです。

 

まあ、綱渡りの名人も、きっと最初の一歩を踏み出すのはドキドキしたことでしょう。正直になってみると、世界が思ったよりも優しいことに気づきます。それと同時に、今までどれほど自分が、周囲を疑りの目で見ていたか、周りの人を信頼していなかったかを知ります。この時の、自分が周りを信頼できていなかったと知るプロセスは結構辛いものがありますが、それよりも、正直に人に何かを伝えたことを、受け入れてもらえた喜びの方が絶対に勝ることでしょう。「正直に言ったら受け入れる保証書」を相手から確約としてもらわずに、勇気を持って正直になった人にとってはさらに喜びはひとしおです。

 

もちろん、ここ最近の強風のように、どう考えても綱渡りに適さないシチュエーションもあります。ですから、いつでもどんな時でも正直になるべきだという話ではありません。

ただ、青空が広がり、無風で、ゴール地点がクリアに見えている時。そのゴールで手を振って待っていてくれる誰かが、綱渡りをサポートしてくれてきた人ならどうでしょうか?

 

多分、私はこれからも正直になれない時もあると思いますし、正直になってしまったことを後悔することもあるでしょう。それでも、そんなめんどくさい自分が、あえて勇気を振り絞って正直になった時に、受け入れてくれた相手への感謝だけは心に刻んで忘れないようにしたいです。

 

それではお休みなさいませ。