探しにいくよ

ひとりごと。

もしも人のこころが読めたなら

もしも人のこころが読めたなら

 

真っ先に、私を傷つけたあの人のところにいく

そしてあの人の顔を真正面から見てやる

 

「なんだ、あんたは」

 

「急にどうした」

 

「本当にいつも勝手だな」

 

あの人の髭だらけの口から発せられるのは、どうせ聞きたくもない言葉。

 

でも

 

その時に、もう少しその場に居続けられる勇気を

私のトラウマが許してくれるなら、その時間を与えくれるなら、

 

ろくでもないことを喋り続けるあの人の心の声が、私の耳の奥にだけ到達するだろう。

 

「本当は・・・ずっとずっと待ってたんだ。よく来た。愛している」

 

今更こんな都合のいい夢はない。

現実で叶わない夢は見ない。

眠れない夜の方が多いし、夢は悪夢という形でばかり夢を沈潜する。

 

もしも人のこころが読めたなら

悪夢でさえ見たことがないようなほどの、素晴らしい経験ができる。

 

あの人が、口では私に文句を言いながら、内心の愛を伝えてくれているんだよ。

それがはっきり聞こえているんだよ。

 

 

今日1日の魔法。

 

すぐに、消える。

 

もしも人のこころを、1日でも読める特権が当たられたら・・・

 

私は、あの人の本音が知りたい。

 

私を愛してる?

それとも、私なんかいらない?

 

 

 

人のこころを読みすぎて、疲れました。

壊れたアンテナは卒業します。

次は、人間に生まれ変わりたい。

 

 

「正直に言ったら受け入れてあげる保証書」欲しいですか?

こんばんは。

 

めっちゃお久しぶりです。

花粉がひどいです。春近いですね。

 

さて、今日は「正直になる」ということについて、考えてみたいと思います。

 

正直に生きよう、正直に話そう、正直に人と付き合おう。これらのことはよく言われますし、当たり前のようになっています。

それでも、正直になるって意外と難しかったりします。

 

正直に言って、嫌われないかな?

え?って顔をされないかな?

そんなこと思ってたの、と思われないかな?

え、無理だよ・・・って反応が返ってきたら、正直になったことを後悔しそう・・・

 

そんなあれやこれやを、先に目一杯空想して、考えて、想定問答しちゃう人は、正直になれと言われること自体が、本当にプレッシャーになったりします。

 

大丈夫、嫌わないよ。

何を言っても、受け止めるよ。

そう保証してもらえて初めて正直になれるんでしょうし、たとえ「正直に伝えても受け止めます保証書」をもらっていたとしても、それでも正直になれないストッパーのようなものが意識的にも、無意識的にもかかってしまうんです。

 

これを私は、自制心を呼んでいます。

 

人に迷惑をかけたくない。

みんなと仲良くやっていきたい。

だからこそ、自分を見せてはいけないと思っているストッパー。

そりゃ疲れるわけです。誰一人として正直になったらあなたのことを嫌うよ、拒絶するよ、と伝えられたわけではないです。(内心で思っていたり、非言語コミュニケーションで伝えてくれている人はいるのかもしれませんが・・・)とにかく、誰かに不快感を抱かせたくない。なぜなら、誰かに不快感を抱かせた結果、「あなたのせいで私は不快になりました」と表明されたら、自分が傷ついてしまうから。つまり、相手を傷つけるのが怖いのではなく、自分が傷つきたくないからこそ、自分の正直を出せないだけなのです。

 

ここまで書くと、ああなんて自己中心的なんだろうって思いますよね? でも、これって本当に自己中心的なんでしょうか?

 

だって、自分に正直になれない人は、これまで嫌というほど、「正直になった結果がどうなるか」を経験してきているのです。相手が不快そうにする、相手から拒絶される、それらをスルーできず自分が感情的に反射して反応してしまう。そういう自分に自己嫌悪して、落ち込んでしまう。正直になることって、もはや博打の世界のようなものです。自制心と、自己開示との、ぎりぎりの綱渡りゲーム。本当の綱渡りと一緒です。落ちないように、体幹と、足元の体力と集中力は維持しなければならない。でも、それらは最後、渡り切るまで持続しないとならない。正直になることも同じです。ただの一度だけ正直になることも、価値があるでしょう。しかし、肝心なのは、それを維持して、人生のゴールまで維持できるかどうかです。

 

まあ、綱渡りの名人も、きっと最初の一歩を踏み出すのはドキドキしたことでしょう。正直になってみると、世界が思ったよりも優しいことに気づきます。それと同時に、今までどれほど自分が、周囲を疑りの目で見ていたか、周りの人を信頼していなかったかを知ります。この時の、自分が周りを信頼できていなかったと知るプロセスは結構辛いものがありますが、それよりも、正直に人に何かを伝えたことを、受け入れてもらえた喜びの方が絶対に勝ることでしょう。「正直に言ったら受け入れる保証書」を相手から確約としてもらわずに、勇気を持って正直になった人にとってはさらに喜びはひとしおです。

 

もちろん、ここ最近の強風のように、どう考えても綱渡りに適さないシチュエーションもあります。ですから、いつでもどんな時でも正直になるべきだという話ではありません。

ただ、青空が広がり、無風で、ゴール地点がクリアに見えている時。そのゴールで手を振って待っていてくれる誰かが、綱渡りをサポートしてくれてきた人ならどうでしょうか?

 

多分、私はこれからも正直になれない時もあると思いますし、正直になってしまったことを後悔することもあるでしょう。それでも、そんなめんどくさい自分が、あえて勇気を振り絞って正直になった時に、受け入れてくれた相手への感謝だけは心に刻んで忘れないようにしたいです。

 

それではお休みなさいませ。

クリスマスなんて大嫌い

こんばんは。

 

物騒なタイトルですみません。

 

前向きに頑張ろうと思ったけれど。

 

やっぱりクリスマスなんて嫌い。

喜び方が足りない。感謝が足りない。

 

自分の心の貧しさを思い知らされるシーズン。

 

今年は変わりたかった。新しいクリスマスを過ごしたかった。

 

まだ終わっていない。

まだ時間は残されてる。

 

私は、喜びを表に出すのが苦手で。自分自身、心の底から喜んでいるのか、感謝しているのか、わかんないけれど。嬉しい、ありがとう・・・そう感じているのは確かだから。

 

お願いだから100%じゃないと、罪人だって言わないで。

私の感情を判定しないで。色をつけないで。ラベルを勝手に貼らないで。あなたが私にラベルを貼り付けたら、私はそのラベル通りにしか動けないの。自分で剥がすことができないの。

 

「そんなことないよ。あなたは強い人だよ」

 

慰めないで。

誰と比較して強いの?

 

配慮という形を取りながら、私に指示をしないで。私は甘んじてこの状況を受け入れているの。相談しているのは、別の支配者が欲しいからじゃない。私の人生の舵を、ある人からある人に渡したいからじゃない。

 

私が私の人生の舵を取れるようになりたいの。

 

優しさが欲しいと思った。そうやって人に縋って甘えて。

アドバイスに塗れて、別の鎖に絡みとられて。

 

 

ずっと、考えてるんです。

アドバイスが嫌なら、なんて言われたいのかって。

 

何も言わないでいい。

ただ、笑って。

今が不幸じゃないと教えてくれるだけでいい。

 

それだけで、解放されるとわかっているのに、

 

周囲からは思うように笑顔がもらえない。

向けられる優しさに、心が痙攣する。

 

それでもなお、今年のクリスマスに何かが起きるかもしれないと、淡い期待を抱いています。

あなたは優しく私をリフレーミングする

こんばんは。

 

夕焼け前の、グルーグレーの空が今日はめっちゃ綺麗でした。

 

さて。

 

珍しく今日は色々なことがうまく進行して、すごくポジティブな気持ちで夜を迎えました。

最近始めた日記の書き方も、なんだかしっくりきていて。

 

何年も前から日記は書いていたのですが。

 

「その日の感謝を3つ」

 

とか、

 

「今日のできたことを書く」

 

とか、

 

いろいろチャレンジしたんですけど、感謝とか達成感とかは「日記に書くために頑張って捻り出してない、わたし?」という気がしてました。

素直に感謝していることがほとんどですけど、たまに何にも感謝が浮かばない日もあって。

 

いや、たまにじゃなくて、しょっちゅう、「今日は何にも感謝できないよー」という日がある。

 

そういう日の日記に、「感謝ゼロ。つまらない日だった」と書けたらいいんだけど、そうすると、自分がものすごく感謝する心のない人間のようで、それがツライ。

 

「人って字は助け合ってできている」って金八先生が言ってたんでしたっけ?

 

あれ、一方が一方を一方的に支えているだけの気もしますが 笑

 

ともかく、社会は支えあってできているものなのに、1日を社会の中で暮らして「何も感謝することが見出せない自分」を1日の最後に発見するのは、ものすごく居心地が悪いというか、自己肯定感が下がる。

 

だから、1日を振り返って「ありがたいな」という事柄を探すわけですが。

 

本当にありがたいと思った?

無理やりありがたいという言語化してない?

 

そういう疑惑が自分の中に広がってきて、日記を書くという作業さえなければ、自分の中で自然に生じて、自覚もないままに、相手への好感として蓄積されていたはずの「あわひ」だったのに、わざわざ言語化することによってそれを貶めてしまったような気がしていました。

 

それで、日記のやり方を変えたんです。

 

どう変えたのかは秘密。

 

でも、わざと、「1日をポジティブに変換する」のをやめたのは確かです。そうすると、気が楽になりました。自分の感情をラベリングすることが、メンタルコントロールに大事なのはわかっているつもりだし、「ああ怒っているな」とか、「この怒りは不安からきているな」とか、認識するのって必要なことだと思う。相手が原因じゃない。自分に原因があるとわかると、それなら、自分でなんとかできる要素も生まれるから。

 

もちろん、自分の悲しさや不安は、自分でも簡単に変えられないよ?

 

でも、相手を変えることはできない。絶対に。

 

だったら、どんな感情も自分が生み出しているとわかっていた方がずっといい。

 

ーーで。

 

日記を変えたおかげかどうかは不明だけど、今日は、問題なく過ごせて、あー、よかったなぁって思って夜を迎えました。

 

そうしたらね。

 

夜になってから、やっぱり起きたの。

 

想定外のこと。

 

あーー、そっち方面ですか、って感じで・・・。

 

え?

どうしたかって?

 

もちろん、冷静に対応したよ。ーーできてたかって? できてたつもり。笑

 

特にトラブルもなかったしね。淡々と過ぎたという感じ。相手の主張もちゃんと聞いて、伝えないとならないことは伝えて、簡潔に終わった。

 

疲れちゃった。

 

これも自己成長?

コミュニケーション能力向上?

視野が広がった?

臨機応変な対応スキルアップ

 

スリルに溢れる生活の方が刺激的?

 

 

 

ーーーいやいやいや!(強調っ)

 

 

そんなレベルアップいらんから、静かな夜を過ごさせてほしい〜〜。

 

 

あのね。

最近、よく「物事はリフレーミングするといい」というお説を見かけます。

 

ネガティブ思考に偏りすぎるのは良くないよ?

 

物事に固定の額縁をかけずに、たまには違う額縁をかけてみて? 

ほら、いつもの絵も額縁を変えたら、見違えるでしょう?

 

同じように、否定的にしか捉えられない現実も、見方を変えたら、学べることや得られることがたっくさんあるんだよ!

 

・・・ってことでしょうけれど。

 

・・・

 

ゴッホやモネは、額縁なしでも売れると思いますし、絵そのものが素敵ですよね?

 

自分にとって、この出来事はとてつもないストレスだけど、見方を変えれば、違うように考えられるはず。見方を変えよう、変えよう、変えよう。そうだ、感謝するんだ・・・

 

 

無理です。

しんどいもんはしんどい。

 

 

ニーバーの「平和の祈り」にある通り

 

「変えられるものと変えられないものを見極める知恵をください」です。この言葉が、こういうときの私には大事だなって思います。

 

しんどいって気持ちはどうしたって変えられない。しんどいと思っている見方は変えられない。

だけど、しんどいって思いながら、皿を洗ったり、お風呂に入ったり、読みかけの本の字を追うことはできる。しんどいって思ったその空気感から、1メートルでも、1秒でも脳みそを変えることはーー変えようと試みることはできる。

すぐに、しんどいって想いが消えなくてもいい。

あのことはめっちゃしんどかった。うざすぎた。

とりあえず皿洗おう。

スポンジに洗剤を落とした瞬間から、視界にあるのは汚れた皿とモフモフのスポンジ。少なくとも、油汚れをちゃんと落とそうとか、どんな順序で洗おうとか、考える。作業するための脳とネガティブな脳の働きがシェアし始めたら、嚆矢。めっけもの。戻っていく。

 

ホント、毎日は想定外の連続で。

 

うまくいく、と思って喜んだ日こそ、落とし穴があるもんだけど。

 

読みかけの本を読んだり、自分で作ったご飯が美味しかったり、コンロを徹底的に磨いたり。

そんなことをしていたらね。ふと気づきました。

あれ? 落とし穴に落ちたんじゃなかったんだって。

 

なんでもない日だった。

ただ、それだけだったんだなって。

99.9%のグレーと100%の黒

こんばんは。

 

気持ち悪いぐらい暖かいので、素足でPCを打っています。

冬は苦手なので、気温が高いのは個人的には大歓迎ですけど、夏が異常に暑かったり、12月になって20度を超えたりすると、「地球さん、大丈夫?」と心配になっちゃいますよね。

 

普通が一番。

 

フツーって言葉は苦手です。フツーってなんだよ 笑。

 

そうやってとんがっていた時期もありました。

 

ダイバーシティの時代になって、この普通って概念もファジィになりましたね。

何が普通かなんて、人によって様々です。「普通」という大前提で人と話そうとすると、大抵は物別れに終わりそう。

 

例えば、誰かと小さな頃の思い出話をするとします。

私にとって子供の頃の思い出で強烈なのは、肝試しです。森にある神社まで、蝋燭一本持って子供一人ずつ歩いて行かされて、そこに置いてあるお札を取って帰ってくるっていう、今考えると信じられないような肝試しがあったんです。もし、途中で事故や怪我があったらどうしたんでしょうか。そんなことは考えてなかったのかもしれません。そういうことも含めての肝試しだったのなら、ある意味すごいなって思いますけど。

 

でも、他の人の子ども時代の思い出は全然違うと思います。

七夕とかクリスマスとかの行事かもしれないですし、家族旅行かもしれないし、あるいは友達とのたあいない出来事かもしれない。人によっては、振り返ることもできない出来事が一番強烈に残っているという人もいると思います。

 

だから、普通なんて枠組みをすること自体、意味がないなって思います。

 

でも、この普通っていう言葉は、ものすごく強烈な効果があって、この普通という言葉に私たちは従って暮らしている。少なくとも私は、自分が「普通」として取り扱われると、ものすごく安心します。認められたと感じます。

 

誰に認められたのかは、わからないんですけど。

 

社会とか、周囲の期待とか、そういうことかもしれませんし、自覚していない自分自身への期待感かもしれません。

 

最近は、パスワードだけでなく、その後でもう一度本人確認を行う2段階認証がスタンダードになってきていますけど、そういうのと似ている気がします。

 

普通と取り扱われることによって、今生きている自分自身に「それでいいよ、間違ってないよ」とゴーサインを出してやることがやっとできるんです。

 

こういうめんどくさいことばっかり考えていると、どうしても、スマホにフィルターバブルがかかってきます。

 

できるだけ回避しようとはしていますが、それでも自然と似たような記事がおすすめされてきます。「ストレスを解消するには」とか「対人関係で悩むとき」とか。

 

おすすめ通りになるのも、ちょっと悔しい。ますますアルゴリズムに拍車がかかってしまう。

それは怖いんですけど、やっぱり興味があるので、おすすめされた記事を読んでしまうわけですが、その中でどうしても引っかかることがあります。

 

大抵の記事に書いてあるんです。

 

「悩む人、トラウマのある人は、ゼロ/100思考をするので、やめましょう!」ーーって。

 

つまり、白黒思考、二極化思考をやめた方が、楽に生きられますよって、記事を書いた人々は親切に勧めてくれているわけで。

 

善と悪。正と誤。決めつけない方がいい。この世で生きていると、白黒つけられないことの方が多いから。だから、グレーでいこう、臨機応変に、曖昧で揺らぎやすい基準も広い心で受け入れていこう。

 

そういうことだと思うんですけど。

 

じゃあ。

 

99.9%のグレーと、100%の黒は、別の色ですか?

 

私は絵を描くことなんてほとんどしたことがなかったんですが、最近、たまたまPCで色を塗る機会がありまして。PCの色って、本当にたくさんあるんですね。グレーも濃淡様々でした。黒に限りなく近いグレーなんて、私には黒との違いが全く分かりませんでした。ただ、色番号が違うから、あっ、違うんだ、ってわかるだけで。

 

この見た目では違いのわからないグレーと黒を使い分ける意味があるのかなって、私は思ったんですけど・・・。

 

詳しい人が教えてくれたんです。

 

「色番号が違うってことが大事なんだよ」

 

えっと、つまり、たとえ0.1%の違いでも、自分がグレーだと思って選ぶか、黒だと思って選ぶかで、たとえ見た目は一緒でも、違うんだなってことです。

誰もその違いに気づかないかもしれない。

自分でも、あれ?自分が選んだのってグレーだったよね?って不安になるかもしれない。

でも、グレーを選んだのなら、絶対に違いはあるんです。

 

 

こんなことを言いながら、私は「白黒思考をやめましょう」っておすすめ自体が嫌いです。

白黒思考をやめようって言いながら、「白黒思考は良くないものだ」という思考が既に、白黒思考の一部だと思うからです。時には白黒思考が必要なこともある。断じてNOと言わなければならない時があります。

 

「あなたなんて黒です。真っ黒です。だから、私の生活から排除します。お願いしますから、出ていってください」

 

相手が正しいかどうかか問題ではないんです。とにかく、相手を黒で、自分を白だと断定して、相手と自分を切り離すことでしか、現状から立ち上がれない人もいる。相手にNOを突きつける時、罪悪感にズタズタになりながらも、必死でその人は生きていこうとしているわけで。

「白黒思考は良くない」という勧めは、もともとNOという言葉を言い出しにくい人から、NOという言葉自体を口にする機会さえ奪う可能性があると、私は思います。

 

クリスマスの飾りを飾ったけれど。

改めて思っています。

 

クリスマスは苦手です。できれば、この季節は通り過ぎてほしい。

 

でも。

今年は好きになりたいと、思っています。

 

 

自己愛のスター

こんばんは。

 

体重が2キロ減りました。

ダイエットできた、ヤッタァ〜。

 

・・・って2週間でって、ちょっとどうかなって自分で思うんですけど。

年季の入った体重計なので壊れているだけかもしれません。ぬか喜びしないでおこう。

ダイエットしようと頑張った時には500グラム減らすのもやっとだったのに

(それもどうよ 笑)

 

今日はお菓子を結構食べた自覚あるんだけど。クリスマスパーティにリバウンドが怖いです。

 

自分以外の人が特別な賞をもらった時。

どう思いますか?

 

普通、すごーい、おめでとう!

 

ってなるんでしょうね。

 

私の場合は、もちろんおめでとう、すごいねと思いますし、心からその人を尊敬します。その人の偉大さを見習いたいなって思います。拍手の場に居合わせられることも光栄です。ありがたいことです。

 

でも残念ながら、それだけでは終わらない。

 

「自分はなんて情けないんだろう」

 

必ず、自己否定がセットになるんですね。この思いが実に厄介なんです。

 

他者の功績は私とは一切関係のないところで培われたものであって、例えば、私がいようといまいと、その方は功績を成し遂げたのです。同時に、私がどれほど偉大な人物であったとしても、その方の功績が成就する時期がもっと早くなったかといえば、そんなことは全く関係ないわけで。

つまり、私は完全な部外者なのです。当たり前ですね。ただ、その方の功績が発表されただけで、それに敬意を表する場に私は居合わせただけに過ぎないわけですから。その方と交友はあれど、個々の働きに関係はないわけです。

 

こうやって、他人の功績であろうと、逆に失敗であろうと、何でもかんでも見境なく、「自分」と関連づける思考は、本当に自己愛の極地! 実にめんどくさいと思うのです。

 

クリスマスにはツリーを飾る。

たくさんの飾り付け。星とか、モールとか、たいていはキラキラしたものばかり。イルミネーションもある。

 

もし、あなたが、ツリーを飾っている家主とします。

美しく飾り付けられたツリーを前に、箱に残った最後の飾りを手に取ったところ、その飾りが口を開いていうことにゃ、

 

「待ってください。僕は他の飾りみたいに立派な飾りじゃないから、ツリーには飾らないでください。そんなおこがましいことはできません。箱の中が僕にはふさわしいですから」

 

ーーそう言ったとしたらどうです?

 

うるさいよ、黙って飾られてろよ!

 

そう言うと思いません?

 

「みんな尊く価値がある」って言ったのは誰でしたっっけ? ともかく、それぞれに違った個性と持ち味があって、比較しても意味がないし、どうしても比較することをやめられないんだったら、あえて比較しまくって、「負けたー!」と思ったら、その手痛い負けの部分こそ、自分の持ち味だと思えばいい。

 

ほら、なれ鮨とか、くさやとか。

嫌いな人からすれば「あんなものなんで好きなの?!」と思えるものでも、好きな方にとっては宝物のように素晴らしい美味しさなわけで。

 

そんなことを思いながら、夜空を見上げると、星なんか全く見えませんでした。

明日から全国的に荒天だというので、低気圧が近づいているせいかな? 

 

都会のネオンを遠くに映して暗くなり切れない夜空に、知り合いのみんなの顔を思い浮かべました。

 

今日聞いたばかりの功績を上げた人の顔。

いつも笑顔を絶やさない人。

おしゃべりが上手な人。

背の高い姿勢の良い人。

計算が早い人。

メガネの人。

なんか、一言余計な人。

それって配慮ですか?という妙な言葉掛けをしてくる人。

不機嫌顔しか見たことない人。

どんな顔だっけ? 目、細かったけ・・・明確に思い出せない人・・・すんません!

 

そうやって知り合いを思い浮かべていると、みんな、きっとそれぞれの重荷を背負ってて、それを見せないようにして、時にはちろっと見せたり、人によってはフルオープンにしたりしながら、それでも懸命に生きているんだー、と思ったわけで。

 

火星とか土星とか。星のことはよく知らないけど。

星たちの置かれた環境は、多分、重要な部分では全く異なっていて。

でも、地球では渾然一体となった一つの星空が作られている。

 

いつも私は下から美しい星空を眺めるだけの人間だと思っていた。星空には加えてもらえない、加えてもらう資格なんてないと思っていた。

 

でも、違うのかもしれない。

 

そうと感じたのは、布団をかぶってさんざん泣いて、スッキリしたから。

 

私にも生まれた日はある。

だから、時々見る「あなたの星座占い」に該当する星座はあるわけで。

 

だったら、私の居場所も星空にあるんじゃない?

 

 

やっぱり、泣くのは最強のデトックスですね。誰かが邪魔するわけじゃないですけど、一人きりの部屋の中でも布団をかぶるのはおすすめです。煩わしい部屋の景色から一切が遮断されて、内にこもれます。自己愛のピークになれます。そうしてさんざん泣いたら、そのうち、我に帰ります。私の場合は、布団の中が暑くなって我に帰ります。

 

ご飯を食べて、お風呂に入り、お気に入りのフェイスマスクを貼り付けながら、白湯を飲む。

自分を労わるのは大事ですね。ホント。

華奢なアリバイ

こんばんは。

 

今日は、久しぶりに短編を一つ。

第二回目ぶり。

フィクションを描くのは、本当に久しぶりだから、

どうぞ半開きの目でお読みくださいますように。笑。

 

 

 

なお、登場する人物・場所は完全にフィクションです。

_______

 

「バイバイ、お姉ちゃん」

 

火葬場の炉に進んでいく棺を見送る。真っ白い棺は、廉価な品だったけれど、せめてもの心遣いと思って、姉の大好きだった花束を棺の上に乗せてもらった。

 

今までありがとう。

長い闘病生活を、グチひとつ言わないで、お疲れ様でした。

ゆっくり休んでください。

 

控え室に案内される。兄と妹、あと葬儀を担当してくれたお坊様が一緒に来てくれた。姉が信心を持っていたなんて、生前は聞いたことがなかった。全て、自分で段取りを済ませて、残された兄妹に迷惑がかからないように手配していた。最後までお姉ちゃんらしい。

 

「ジュース、いかがですか?」

 

オレンジがいいか、りんごがいいか、迷っていると、お坊様は「ではお茶をいただきます」と言った。場にしっとりと馴染む微笑み。百戦錬磨のお坊様なんだろうな。若そうに見えるけれど、こういう職業の人って、年齢がわからない。ーー40代? ーーいや、30・・・

 

瓶入りの麦茶を、手酌で、硝子コップに半分注いで、さっきまで読経をしていた唇にそれをそっと押し当てるお坊様。

「美味しいですね」

本当に飲んでるの? コップの中身が減ったように見えない。

 

「実は・・・」お坊様が兄妹を見渡した。ゆっくりと。読経の前に、経典を開くときのように、そろり、とした目線の配り方。重要な話が始まる気配。

「お姉さまの最後の言葉を預かっています」

 

「何それ? 遺言ってこと?」さっきまで、お坊様に何ひとつ配慮を見せなかった兄が、飛び出してきた蛙のように、膝に両手を打ちながら、身を乗り出した。「もしかして遺産? 姉ちゃん、なんか遺してくれたの?」

 

「ちょっと待ってよ」と私。

 

「姉ちゃん、もしかして聞いてるの?」

 

その胡乱げな声色に、ハッとして振り返れば、普段は仲の良い妹が湿気を含んだ目でこちらを見つめている。

 

「何も知らないわよ。なんで私が知ってるのよ」

「姉ちゃんなら、おお姉ちゃんから聞いているかと思った。ずっと看病してたから」

「そうだけど・・・確かに看病していたけど・・・」

「やっぱり、知ってるでしょう?」

「だよね。知らないって不自然すぎ。お前がなんか俺らに隠してんじゃね?」

 

妹と兄が続け様に追い詰めてくる。待って。本当に何も知らないのよーーこの話は!

 

「お姉さまは私以外には秘密にしておられました。臨終の前日、お一人の時に私を枕辺に呼ばれまして、お姉さまは最後の言葉を託されました。”のぞみ、幸せに”ーーそう、ご兄妹に伝えてほしいと」

 

沈黙。

 

「何それ? それが姉ちゃんの最後の言葉だっていうのか?」と、兄が怪訝な顔でさらに前のめる。

「ええ」

 

深いため息を妹が吐く。

 

「おお姉ちゃんらしいなぁ。看病への感謝の言葉を人伝にするところなんか、おお姉ちゃんらしくて、泣けてくるよね。ね、のぞみ姉ちゃん? ーーやだ、なんか、辛かったのに、救われる感じ」鼻を擦りながら妹が泣き笑う。

 

「のぞみさん」お坊様が体ごとこっちに向き直る。「お姉さまは、のぞみさん、あなたにぜひ感謝を伝えてほしいと言っておりました。命が間も無く終わろうとしている自分にとって、あなたこそが、私の人生ののぞみーー希望そのものだからと」

 

読経の時のように、低周波で流れるお坊様の語り掛けをもう少しで理解できないところだった。希望? この私が?

 

「ちょっとお手洗いに・・・」

 

席を立つと、後を追うように、

 

「ーーあっ」と声が上がって、振り向くと、お坊様が袈裟の懐に手を入れていた。「どうやら数珠を炉前に忘れてきてしまったようです。失礼して取りに行ってまいります」

 

そう言って、お坊様はあっという間に、私の横についてきた。

 

「のぞみさん、あなたは喪主ですから、今後もお付き合いをさせていただくことになると思いますので、私の名刺を渡させていただきます」

兄は、喪主を固辞した。理由は知らない。聞きたくもない。

「お名刺なら葬儀の前にもらいましたけれど」

「あれは、僧侶としての名刺です。寺の住所と電話番号しか記載していませんので、お電話いただいても、お勤め中などは出ることができません。一方、こちらは本名を記載してある名刺です。携帯電話の番号も記載してあります。できる限り、対応させていただきますよ」

「はあ」

 

差し出された平凡な名刺を受け取る。

 

「そういえば、私が、お姉さまの最後の言葉を伺っておりました時、あなたはどこにいらっしゃったのですか? 聞くところによると、お姉さんの容体悪化を知ったあなたは片時も離れず看病していたはずでは? それなのに、あれほど長い時間、一体どこへ?」

 

ギョッとして顔を上げると、冷ややかな黒い目が見下ろしていた。

 

「あの時、お姉さんの心臓が止まりましてね。病院が急いであなたと連絡を取ろうとしたのです。しかし、あなたとどうしても連絡が取れなかった。幸い、お姉さんはすぐに意識を取り戻し、心配させたくないから、さっきの緊急事態についてはのぞみに知らせないでほしいと病院に頼んだのですよ。それで病院側も私も黙っていました」

「あの時は仕事で・・・」

「職場にも連絡しました。あなたにアリバイはありません」

「・・・・」

「それでもまさかと思っていました。あなたが今朝チューリップを抱えて葬儀場に来るまではね」

「チューリップ・・・」

「お姉さんは常々自分の葬儀には黄色いチューリップを飾ってほしいと、ご主人様に頼んでいました。しかし、ご主人様と離婚して以降、葬儀はすべて真っ白がいい、という願いに変わっていました。何かの話の折にお姉さんがそう語るのを、あなたも耳にしたことがあるはずです。それなのに、あなたは今朝、葬儀の場に黄色いチューリップの花束を持って来られた。誰からお姉さまのかつての願いを聞いたかは明らかでした」

 

そんなことは証拠にならない。

かつての姉の希望を叶えただけということもある・・・

 

「僕はね、お姉さんの元同僚です。ずっと彼女のことが好きでした」

 

主格が「私」から「僕」に突然変えられた。姉ちゃんの元同僚? このお坊様が? 素知らぬ顔でお坊様は、淡々と続けた。

 

「もちろん、僕の私情は彼女に伝えていません。良き話し相手のポジションでい続けられるように努力しましたから。彼女の病気が発覚して、彼女とご主人は別れました。ご主人の将来のためです。彼女は自分が彼と離婚して、変わったことを受け入れて、この世との別れを全て整えて旅立ったのです。白い棺、簡素な式、これらには彼女の思いが溢れています。

のぞみさん、あなたは姉の思いを知りながら、姉の夫と関係を持った。ひどいことです」

 

仕方ないじゃない。あの人は私を好きだと言った。私も好きだった。

 

「心配は要りません。お姉さんはあなたを許しています。なぜだと思いますか? 自分の愛した夫が幸せになると信じたからですよ。だから、のぞみ、幸せに、と言い残したのです」

 

そう。私が彼を幸せにする。

 

「ちなみに、なぜ彼が、病気のお姉さんと別れたか、ご存じですか?」

「姉が希望したからと」

「そうではありません。病気の人は苦手だと告げられたと」

 

嘘でしょう?

 

「せいぜい健康で長生きしてください。そうでないと、彼がまた他のところに行ってしまいますよ? そもそもアリバイという言葉の元の意味は、”他のところに”です。浮気する人にぴったりの言葉ですね。のぞみさん、お幸せに。」

 

会釈しながら、お坊様は炉前ホールへと向かっていく。

線香の匂いが瞳に沁みた。

 

 

 

 

読んでいただきありがとうございました!