探しにいくよ

ひとりごと。

何よりも居心地悪い言葉は・・・

こんばんは。

 

街に出たよ。

久しぶりに。

 

クリスマス一色かな?

ーーーと思ったら。

 

なんか、そうでもなかった。

 

普通、って感じ。

年の瀬という感じもしなくて、本当に普通。妙に今日が暖かったせいもあるね。12月だって信じられないもん。まだ、分厚いコートを今年は出してないよー。薄いコートを着て行ったけれど、歩いているうちに汗ばんできちゃった。そんなに着込んでないのに嘘でしょって笑。

 

ユニクロを見て。

 

欲しいな。買おうかなって思ったけど。

 

例のサンクコストや、その他諸々が浮かんできて、今日はスルーしました。

 

 

あのね。

 

今日は一番苦手な言葉を紹介します。

 

みんなは、苦手な言葉ってある? 自分が使うときに、やめておいているよ、って言葉だったり、人からは言われるとちょっと苦手だよっていう言葉。あるいは、過去に使ったり使われたりして、苦手になったよって言葉。トラウマになっているよって言葉もあるかもね。

 

私もあるよ。色々と。

 

でもね。

わかったんだ。

 

過去に言われたどんなひどい言葉より。

私がこれまで発して、相手の顔を歪めてきて、自分を呪ってやりたいと思うほど後悔した言葉より。

 

何よりも私が苦手な言葉は別にあったんだって。

 

 

私は最近、あることで、正式に抗議をした。それは、本当に正式なもので、周りの人も、その正当性をちゃんと担保してくれたし、私自身もその妥当性を自覚していた。言葉遣いに気をつけて、どういう問題をその事柄が引き起こすのかを説明した上で、とても困るので、改善して欲しいという旨を伝えるための抗議だった。決して私怨とかじゃなかったし、周りの人も認めてくれた。

 

それで、言われたの。

 

「すみません」

 

その瞬間にね、穴があったら入りたくなった。

 

なんて身の程知らずの私! なんて高飛車の私!

なんて傲岸不遜な私なの!

苦しくて、恥ずかしくてたまらなくなったの。

 

わかってる。正当な意見を言っただけだし、感情的に言ってないし、周りの人もわかってくれたし、なんというか、全く問題ないの。どう考えても問題ないの。どこにも問題は起きてないの。問題があるとすると、正当な意見を言うに至るプロセス、つまり、問題提議をしなくちゃならない動議に問題があったの。

 

ーーわけわかんないね。

 

つまり、支障があったから、私は意見を言った。みんなもそれは困るね、といった。

先方はそれについて、「すみません」と答えてくれたというスムーズな話。

 

その全てはビジネス的に行われた。

それだけの顛末。

 

 

本当の問題は、事務的なやりとりの下で、私の感情が誤作動することなの。

 

罵られたり、蔑まれたり、人格否定されたりするのも辛かったけど。

 

「すみません」

 

このパワーワードたるや!!

 

だって、どんな顔していいのかわかんない。

 

自分の振る舞いが、相手を謝罪させてしまったと言う事実が痛い。怖い。

もちろん、表情ではイミテーションの儀礼をちゃんとしているけれど、内心は、心臓が喉元まで迫り上がってきて、そこで激しく波打っているかのようで、ひどく苦しいの。

 

人を謝らせるぐらいなら、謝ってばかりいた頃のほうが良かったかもしれない。

 

自分が相手の感情を動かしてしまうことが恐ろしい。ううん、ビジネス的なやりとりで、相手の感情をコントロールしてしまったと思うのは傲慢だね。でも、空気のような存在でいたい私にとって、相手にリアクションを取らせてしまうことはとても緊迫するの。そして、これは私の無知の証明でもある。人間同士のやり取りは、お互いが互いからの良いものと良くないものを受け取って、作用されて、影響されあっていくものだよね?

それなのに、自分だけは、相手に悪いものをあげたくない。自分だけは、相手に良いものだけを差し上げたいですって言うのが、そもそも、子供の発想なの。少女時代は、物語の王子様に自分の空想のシナリオを描く。理想の王子様は理想の王子様として振る舞うわけだけど、それは、自分が思い描く良いシナリオを、頭の中の王子様がそのシナリオ通りに演じているだけにすぎない。

 

大人になったら、生身の人間同士は、自分勝手なシナリオで進行しないってわかる。自分の良いものだけを受け取って欲しいと思っても、そうはいかない。「え?そんなつもりじゃないよ」「ひどい、思ってたんと違う!」ってことよくあるよね? そうしているうちに、自分の内側で、どんどん闇が出てくるし、相手は、こちらが自覚していない闇だって見えているわけだから、誤解もしあうし、対立もするし、断絶もする。

だからこそ、心が通じ合えた時は、何倍も嬉しい。自分勝手なシナリオの結果じゃないから。相手も自分も、お互いそれぞれの意思で、心を通い合わせることを選んだのだから。

 

私は子供だ。

すみませんと言われるのを、受け止めきれない。

相手を傷つける覚悟も持てない、子供だ。

 

でも、それでもいい。

前は、自分が我慢すればいいと思っていた。

自分が我慢すれば、誰も傷つかないと思っていた。そんなことあるはずないのに。傷はそこに確かにあるのに。

 

おかしい、と思ったことを、気をつけながら、ちゃんと伝えたら、丁寧に謝罪してもらえた。

それに対して、私は、

「いつもありがとうございます」と答えた。

 

ちょっと卑屈だったかな? でも、対応してもらえたことに対する感謝の気持ちはきっと伝わったと信じることにする。

それでいい。

 

さあ、紅茶を飲もう。

他人事の妖精

こんばんは。

 

クリスマスの色とりどりの飾り付け。

 

星。モール。サンタさん。キャンディケーン。ベル。リース。

そしてツリー。

 

ここ数年はトムテさんを集めています。

 

北欧の妖精さんです。

 

「かわいい」と思っただけでしたが、ウィキを読むと、優しい性格ながら、気難しい一面もあり、大事に扱われないと、その家を捨て去ってしまうとやら・・・

 

「めんどくさい」妖精さん・・・笑

 

かわいい。

 

うちに何人いるかなぁ?

 

たくさんいるよ。

自分で作った子もいるし、今年お迎えした子もいるし。

 

子供の頃は、とにかく優しいサンタさんが好きだったのに、なぜ今は、正体不明な妖精さんが好きなのかなと、ずっと不思議だったのですが、その理由がふとした時にわかりました。

 

トムテさんには、目がないんですよ。

 

本物のトムテさんに、目があるのかどうかは知りませんが、売っているもの・・・私が見かけてきたものは、目がつけられていないものが多かった気がします。だから「トムテさん=目がない、あるいは帽子やお髭で隠れている」というイメージがつきました。

 

目がないのが、気に入った理由かも?

 

そう思いました。

 

自分でトムテさんを作っている時に、それに気が付いたんですよね。

 

「あ・・・この子、目をつけないでいいのね」って。

 

今も、すぐそばの棚の上に、二人のトムテさんがこっちを向いて座っています。

 

でも、彼らの目は帽子の下にあって、つまり、目が見えない状態なので、目が合わないので、視線を感じなくて、いい。

 

面白いって自分でも思う。

普段の私は誰よりも他者の目を気にしてして生きている自覚がある。傍若無人に振る舞っているようでいて、実は「周りからひどいやつだと思われていないか」「表面上困ったそぶりをしてもいいけど、本当のところは嫌わないでほしい」と、魂が焦げそうなほど願っている。そして、その願いを叶えるために、狂おしいほどの努力をしている。

 

聞かれてもないことを自己開示して。頼まれてもないことを率先してやって。道化者になって。そういう自分を自分で罵って反省して貶めて、他者には罪はないと認定することまでして、他者の中で自分の居場所を作りたいと願っている。

 

電話がかかってきたよ。

忙しい人。

仕事を頑張る人。

なんか怒っている人。

心配してくれる人。

訳のわかんない電話。

 

みんな必要とされているんだね。

 

なら、私は?

 

電話がかかってくるだけ幸せ?

必要としてもらっているの? でも、電話はかけた人の都合でかけてくるものだから。もちろん、その人にとって、私は何らかの要件を満たすことができる相手だったんだと思う。そういう意味において、私は電話をしてきた人にとって必要な存在だったし、私もその電話ごとに、時には楽しく、時には真摯に、対応をしてきた。

 

でも、それって、必要とされるってこと?

 

誰かの用事を満たすことができる存在であるということと、誰かに必要とされることって、絶対に違うと思う。何が違うの?って言われたら、困るけど、でも、絶対に違う。

 

えっと、よくわかんないけど。

 

ここんところ、すごくお金の使い方に気をつけていて。

無駄なお金を使わないように、サンクコストとか、減価償却とか、めちゃくちゃ神経質になってるけど、その中で、店頭に並んでいたトムテさんを見かけて、それが前にその店に来た時には置いてなかったので、思わず、衝動買いしちゃった。衝動買いなんて私には滅多にないことなので、そんな行動を取った自分にびっくりした。

 

嬉しかった。欲しくなった。

 

トムテさんが何かの用事を果たしてくれる訳じゃない。ぬいぐるみの妖精さん。でも、私にとって必要だった。精神的な喜びというか、ともかく、それはとても必要な買い物だった。100均で3つ。たったの330円で宝物をゲットできた気分。

 

マフラーを掻き合わせながら、イミテーションの作り笑顔が取れない帰り道。

 

トムテさんの値札をハサミで切って、デスクに飾ったら。

 

目のない人形に見つめられる。凍てついたイミテーションの私が解凍される。

 

トムテさんの秘めた目は内側を見ているの?

私も同じだよ。

 

だからトムテさん。

お願い。

 

私にずっと何も語らないで、のんびりとしていて。

 

 

 

今年のクリスマスが終わるまでに、もう少しトムテさんを増やしたい。

部屋のあちこちにこの子たちがいてくれるなら、怖くない。

 

 

無意識のプロンプトに守られている

こんばんは。

 

寒くなってきましたね。

 

ところで、飲み物で何が好みですか?

 

小さな頃はヤクルトが好きでした。あの、滅多に飲めない感が・・・

たまに給食で登場すると、ヤクルトから後光が差して(笑)

 

最近は、胃が弱いので、白湯飲んでます。

 

「白湯飲んでます」っていうと、意識高いよね、私?

 

みたいで、ちょっとおしゃれな気分w

 

ただの冷めたお湯やんって、突っ込む自分がいる。

 

いつかネルドリップしたり、自家焙煎したりして、本格的な珈琲ライフを楽しみたいけど、

まずはタフな胃を取り戻すほうが先かなー。

 

 

ストレスを抱えて、病院に行った時。

 

「食べられていますか?」

「眠れていますか?」

 

この質問、すっごく苦手。

 

私の場合、寝られなくなるとか、食べられなくなるなんて、ほとんどない。

 

いや、夜中に何度も起きるけど、悪夢もガンガン見るけど、悪夢を見ている途中で朝起きて、現実とうつつの間で境界線がわからなくなって恐怖を引きずるけれど。寝るのが怖くて、なかなか寝付けない日も少なくないけれど。

 

・・・そんなの、普通でしょう?

 

一晩中とか、夜明け近くまで眠れない人に比べたら、眠れているんだから、夢を見ることができるってことは寝られているわけだから、「寝られない」ってわけじゃない。

 

食欲も減らない。だって、体重が減らないもん。

昨日も書いたけど、ストレスかかったら、逆に食べちゃうもん。それも、不健康なもの。スナック菓子とか、マックとか、ケンチキとか。とにかく、体に悪そうなものを食べちゃうもん。だから、「食欲ありますか?」って聞かれても「ちゃんと食べられてます」としか答えられない。

 

そうするとね。

 

ストレスなんかない。

 

私の体がそう証明しているようで。

 

私の心はしんどいって言っているのに、私の体は「お前は大丈夫。寝られている。食べられている。もっと辛い人がいるのに、寝られて、食えているのに、何甘えてるんだ」って、いうの。私の体が私の心を叱るの。

 

ここんところ、すっごく胃が痛くなってきて。

ちょっと食べたら、吐き気がして。

実際リバースはしないんだけど、鳩尾が痛くて、辛くて。ーーで、実際的に、あんまり食べられなくって。ちょっとホッとしたりして。

 

しんどいって思いに、体が共鳴してくれたの?

 

そう思うと、体のしんどさとは裏腹に、心が上昇する。

 

大丈夫だよ。そのうちに、バリバリ食べるから。

 

得意じゃないクリスマスパーティもある。人目が気になる私は、みんなの前では元気な顔をして、ニコニコ笑って食べるから。そうしているうちに、食欲も通常モードになるから。

 

多分、今は、その時のために、「胃腸を休ませろよー」という指令を脳が出しているだけだと思う。

 

私の「しんどい」というプロンプトを受け取った体が、きちんと対応している。

 

生成AIだって、優秀なくせに、こっちがおかしな指示を出すと、へんてこりんな答えを返してくる。

 

きっと、私の体にとって、私の心が発する「しんどい」というプロンプトは、つかみどころがなさすぎて、茫洋として、曖昧で。それでもできる限り真摯に対応してくれている。

 

だから、これまで私は眠れたし。食べられた。

そして、今私が発している「しんどい」は、きっと少し濃度が変わったんだね。

体に送る指令を変えたんだね。

体はそのプロンプトを、優しさとして、受け取ったんだね。

 

そして、私を労ってくれているんだね。

 

 

頑張ってくれてありがとうね、脳さん、体さん。

 

緩やかに、生きていくよ。

 

鏡の国を脱却せよ

こんばんは。

 

食べ過ぎの罪を犯しました。

 

いやー。

 

「しんどっ!」って思っちゃうと、つい、コンビニに行って、スナックを買っちゃうんですよね。

 

で、ポリポリ食べて。胃が痛くなる。

 

わかってるんですけど、やめられない。

 

私の口癖に、「わかってるんですけど」がある。

 

「わかってるんですけど」って、前置きしていれば、理解してないわけじゃないよ、そこまで馬鹿じゃないよ、ちょっと今日はできない事情があっただけだよ、本当はわかってるよ、本当はできる力があるんだよ、今日は情状酌量してね?

 

ーーそういう甘えがあるわけで。

 

ある自己啓発本に、「笑顔が苦手な人は、鏡の前で笑顔の練習をしましょう」と書いてありました。

 

で、練習をしたわけです。

 

鏡の中の自分は、実にヘンテコりんに笑っていて。

なんだこいつ、不自然だな、って思うわけですけど、本には「最初は不自然だと思っても、ザッツ・努力!」みたいなことを書いてあったので、ここは頑張りどころねと思って、鏡に向かってニコニコしてみるわけです。

 

でもねぇーー?

 

 

実際、誰かの前で、ちゃんと笑顔になれているかは、誰も証明してくれないわけで。

 

笑ってるつもりだけど、相手から見ると、引き攣ってるようにしか見えないって言われた過去話のトラウマもあるので、自分の「頑張った笑顔」が効果を上げているという自信には全くつながらんわけです。

 

他人に向けた笑顔を作ろうとするから、鏡の国に笑いかけること自体が目的になっちゃうんですよね。

 

それはまるで、お菓子が食べたいわけでもないのに、退屈だから、つまんないから、暇だから、なんか寂しいから、何かを買いたいから、疲れたから。

そうやってなんかのネガティブ解消のために、コンビニでお菓子を買って、食べて、抜け殻になったスナックの袋をゴミ箱に突っ込みながら自己嫌悪に陥るのとよく似てる。

 

本当に食べたくてスナック菓子を食べるなら、それでいい。

本当に楽しいなら、相手がどう思うかなんてどうでもよくて、自然と笑顔になる。

 

いい加減に、自分がどうしたいのか、そこを間違えないようにしたいです。

 

スナックボリボリ食べて、今日はちゃんとした栄養をいまいち取れなかったのは反省する。

明日は、朝起きたら、洗面して、歯磨きして、

できたら、自分のために心を込めたメイクをしよう。

自己満足できるような、メイクを。

 

そうしたら、きっと、鏡の前から立ち去っても、ずっと笑っていられるだろう。

 

 

 

 

11月は清らかな深海魚

こんばんは。

 

11月が終わりますね。

今日もきれいな夕焼けを見ることができました。

 

とても儲けた気分。

 

ありがと、お日様。

特別にピンクになってくれて。

 

別に、同じような夕焼けの日は、一年中のいつだってあるかもしれないし、特別にきれいな日でもなかったのかもしれないけれど。

 

きれい。

 

そう思えたから、それでいい。

 

自分が歩いていると、自転車が急に飛び出してきたら、危ないって思う。

自分が自転車に乗っていると、猛スピードの車が後ろから来たら、怖い。

自分が車を運転していると、どっちにいくかわからない歩行者が一番嫌。

 

 

歩行者の時。自転車の時。運転中。

いつも自己中心。

 

ごめんね、迷惑かけて。

時にとろくさく、時に突然動き出しているかもしれないけれど、

これでも細心の注意を払って、気をつけているつもり。

 

地動説を信じれば、太陽は私なの?

 

ーーあり得ない。

 

輝くみんなこそ、11月最後の日の、煌めく太陽を浴びて、街の中を闊歩する人々こそ、多数の太陽で、その周りを回る名もなき星、いや、カケラこそが私だよ。

 

誰の迷惑にもならないように、決して輝く星たちにぶつかったりしないように、息を潜めているよ。晩秋の晴れた美しい昼下がりに、軽やかに、能天気に、何も考えずに自転車を漕いでいるように、たとえ他人から見えたとしても、私は沈黙する。

 

そうだよ。

 

私は深海魚だから。

 

真っ暗な海の底を泳いでいるの。

お腹の底を砂地につけながら。瞳孔を開き切って。

 

誰にも迷惑をかけようとなんて思っていない。できれば、私がここで自転車を乗って通り過ぎているなんて、歩いているなんて、私の運転する車が行き過ぎたなんて、

 

誰にも気づかれたくない。

 

食べる価値もない深海魚なの。

 

 

だから、許してね。

こっそりと呼吸するから。時々目を瞑って、何を考えているかわからない時があったとしても、それは、鰓呼吸をしている時なの。命を繋いでいる時なの。目で追いきれない世界の命の輝きを、耳で、全身で感じている時なの。そうしてエネルギーを蓄えて、また深海で泳ぎ出すの。

 

輝くあなたたちの周りで、必死で、漂うから。

 

ちゃんと役目を果たすから。

 

だから、許して。

 

 

誰も傷つけないために。

誰からも傷つけられないために。

 

 

今日の夕焼けが、特別にきれいに見えたのは、多分、理由がある。

 

近くのゴミを拾って、家で捨てた。

 

フルーツジュース? フルーツ牛乳

とにかく、紙パック飲料の飲み終わったゴミが、ポイって道路に捨てられてあって。

 

コロナもインフルもあるし、うぬーっ、って思ったんだけど、決心して、手に取って持ち帰って捨てた。

 

100日1善だよ。

 

え? 次は99日後? 

笑。

 

よくやったぞ。

 

自画自賛してみる夕日は、とてもきれいで。

 

お日様が褒めてくれているようで。

 

わかってるよ。私が私を褒めている。その気持ちで見るから、なんでもない平凡な夕焼けが「特別」に見える。心で欲しい気持ちを鏡のように反射しているだけ。目の前の景色を「見たいと思った、願いが叶った」と、思い込んでいる。もし、曇り空だったら「なんて素敵な雲の重なり!」というんだろうし、雨だったら「なんて静謐な雨・・・!」とかいうのかもしれない・・・笑。

 

でも、いいの。

 

自分の見たい景色を見て、それに素直に心が震える。

 

そんな11月仕舞いは、ただ、幸せです。

 

 

 

エスパーのいいわけ

こんばんは。

 

自分の境界線のなさに落ち込む夜です。

上手に断るヒケツ?

 

そんなものは本当に存在するのでしょうか? 個人の性質や、気立の問題とかじゃなくて、例えば魔法のじゅうたんみたいに、誰もがそれさえ使えばできなかったことができるようになる、というスキルがあるのなら欲しい。

 

わかってる。

 

 

本当に「嫌なものは嫌」と言っていい。

 

もし嫌と言ったところで、社会性にきちんと配慮して、相手の気持ちにも十分気を遣って、これからの関係に齟齬をきたさない言い方ならば大丈夫。

 

もし、これからの関係をぶっ壊す言い方でも、その覚悟があって言うならそれもあり。

それほど「嫌」なら、そう主張するのもあり。

 

社会性に則った「NO」か、関係を破壊する「NO」か。

 

どっちでも、本人が決意していればいい。

 

 

でも、その「覚悟」が難しい・・・。

 

私自身は、相手の気持ちを察するのが、とても苦手。

だから、嫌な時は嫌と言って欲しいタイプ。

嫌だよ、できないよ、そう言われても、別に平気。

 

そりゃ、言い方次第で、ムカつく時もあるかもしれないけれど、嫌だと思っているのに、「良いよ(内心むか)」よりは、ちゃんとできないものはできないって言ってもらう方がいいかな。

 

相手の気持ちがわからないってのも、しんどいから。

察したいけど、エスパーじゃないからね。

だから、伝えあった方が、効率がいいし、誤解もなくなると思うんだ。

 

もちろん、相手に配慮したり気遣ったりする努力は続けるけど、

伝えたいことは伝えてほしい。

 

だから、私も伝えたい。

 

なのに、

 

「ごめんなさい、それはできません」

 

ある事柄に関しては、この言葉が言えなくなる。

 

 

ーーーふう。

 

 

どうしてかなぁ。

 

どうして、こんな風になっちゃったんだろう?

 

 

ただ、断る資格なんかないって、反射性で思っちゃう。

 

資格ってなんだよ(笑)

そう思うけど。

 

 

本当は「すみませんが、それはできません」とはっきり言いたい。そう言う時に、心臓がバックバクしないようになりたい。相手の目を見つめて、余裕の微笑みを浮かべられるようになりたい。そうして、自分が相手に対して抱いているのと同等の敬意の微笑みを相手からも返されたい。透明な以心伝心のトンネルには、リスペクトと好意だけが自由に行き交ってほしい。

 

なんてーーね。

 

勝手な妄想を一人浮かべてるけど。

 

現実では、勇気も実行力もない自分がいる。

 

きちんと断れない私は、相手への本物の敬意と好意を持っていない。

少なくとも示せていない。

 

わかっている。わかっているつもりだよ。

 

今日は失敗しちゃった。

明日はひとつ、ひとつ、できるといいな。

 

できるかな。

 

できなかったら・・・?

 

それでも、毎日は続くのです。ちゃんちゃん。

違和感のナラタージュ

こんばんは。

 

鍋は好きですか?

私は好き。

 

いや。前の記事で「自分の好きなものがわからない」っていっといて、

鍋は好き、って、なんだよって話ですが(笑)

 

私の好き=快い

 

なんだな。

 

1日を終えて、枕に顔を埋めると「快い」

土鍋の蓋を開けて、フワーっとした湯気を顔中に浴びると「快い」

 

今のところ、「快い」を拾い集めて、好きと表現しています。

 

わかっているよ。

 

好きと、快いは、多分だけど、全く違う感覚。

 

快・不快は、ものすごく原始的な感覚って言うよね? それこそ生まれたての赤ちゃんが、おむつが湿ったら、泣いて「交換してー」と訴える。そのレベルの感覚。

逆に、優しく抱きしめてもらったら、安心する。

 

私の好きは、まだその段階に留まっている。

そういう自分に、ああ、大人になりきれていないなって思うけれど、ま、いっかとも思う。

 

少し前までは、「快い」すら、わかんなかったから。

 

枕に顔を埋めて、鍋の湯気を浴びて、これいい!って思えるなら、十分幸せだよ。

 

 

人様の好きと、自分の好きがどっか違うよねって思ってる。

いわゆる自己啓発本というのを色々読んでみたりしたけれど、

そういう本に書いてあることって、「あなたの違和感は受け入れて、大切にして」

ってことが多かったように思う。

 

違和感を大事にしていいって、メッセージは最初は嬉しかった。

自分が感じていた「いや」って思いは、間違いじゃなかった。

たとえ、他の人からみて、すごく間違っていることであったとしても、私自身が否定することはなかったんだ、私にとっては真実であっていいんだと思えたから。

違和感を覚えた自分に違和感を覚えなくてよくて、嬉しかった。

(なんの言葉遊び・・・笑)

 

けど、そうやって、違和感に承認を自分で与えて、

違和感に、現実世界の中で、居心地の良い居場所を与えてあげようとするたびに、

周りとの間に、流れていく通常の日常との間に、

普通のみんなとの感覚や表情、会話、コミュニケーションとの間にどんどん乖離が生まれていって、頑張って集団に溶け込もうとしている私自身を、私の違和感が裏切って、「お前はここに本当はふさわしくない過去の持ち主だよ。だって、こんな違和感を抱いてこの場にいるんだから」と、その違和感自身が証人になってしまっていったの。

 

例えば、友達を飲み会に連れて行ったら、その子が、学生時代の私の失態を暴露してしまって。その話のおかげで、飲み会自体は大盛り上がりになって、みんなもその子もすごく楽しそうで。でも、私自身は必死で愛想笑いをして、心で大泣きして。ただただ、いじられるだけになって。辛くて、悲しくて、でもそれを言い出せなくて、帰りの電車で一人になった途端、涙が滲んじゃう、みたいな。

 

もう2度とその子に会うもんか!

 

ーーと思うのに。

 

また会っちゃうの。

そして、会うたびに、迎合しちゃうの。

 

だって、その子に逆らえない。てか、なんか好きだから。

好きなのか、憎いのか、もうわからないから。

 

だって、その子の方が正しいから。すごいから。輝いているから。

私には正しさはないから。

 

強烈な憧憬と嫉妬は適切な拒絶感を感じさせないぐらいに煌めいて、魅惑的で、甘美ですらあって、本当は嫌がっているっていう自分の感覚すら曇らせるんだ。

 

 

結局ね、「何かを大切にしよう」と、意固地になって思うこともまた、すごく危険なんだってことなんだな、私の場合。

 

だから、とにかく、何も考えず、何もラベリングせず、目の前のやることをやるのがいい。

そういうのがいい。

 

そりゃ、色々と違和感を覚えることもあるよ?

 

なんだそりゃ。

そりゃないでしょ?

えー、そうする?

いっといてよ、先に・・・・

ムカっ。

 

色々あるけど。

 

「違和感」ってラベリングをつけても、良いことない。受け入れても良いことひとつもない。

それより、

 

今日の私は、ムカっ、を流したよ? えーっ、と思ったけど、お互い様だよね、と思えたよ?

そうやって、自分をヨシヨシしてやる方がずっといい。

 

多分、私も、そうやって、誰かに違和感を抱かせながら、スルーしてもらってきていると思うから。

 

今日の鍋は、鶏塩鍋。

豆腐も春菊も、うどんも買い忘れましたが、違和感は自分でスルーしました。

 

これもまたよし、ということで・・・笑。