探しにいくよ

ひとりごと。

違和感のナラタージュ

こんばんは。

 

鍋は好きですか?

私は好き。

 

いや。前の記事で「自分の好きなものがわからない」っていっといて、

鍋は好き、って、なんだよって話ですが(笑)

 

私の好き=快い

 

なんだな。

 

1日を終えて、枕に顔を埋めると「快い」

土鍋の蓋を開けて、フワーっとした湯気を顔中に浴びると「快い」

 

今のところ、「快い」を拾い集めて、好きと表現しています。

 

わかっているよ。

 

好きと、快いは、多分だけど、全く違う感覚。

 

快・不快は、ものすごく原始的な感覚って言うよね? それこそ生まれたての赤ちゃんが、おむつが湿ったら、泣いて「交換してー」と訴える。そのレベルの感覚。

逆に、優しく抱きしめてもらったら、安心する。

 

私の好きは、まだその段階に留まっている。

そういう自分に、ああ、大人になりきれていないなって思うけれど、ま、いっかとも思う。

 

少し前までは、「快い」すら、わかんなかったから。

 

枕に顔を埋めて、鍋の湯気を浴びて、これいい!って思えるなら、十分幸せだよ。

 

 

人様の好きと、自分の好きがどっか違うよねって思ってる。

いわゆる自己啓発本というのを色々読んでみたりしたけれど、

そういう本に書いてあることって、「あなたの違和感は受け入れて、大切にして」

ってことが多かったように思う。

 

違和感を大事にしていいって、メッセージは最初は嬉しかった。

自分が感じていた「いや」って思いは、間違いじゃなかった。

たとえ、他の人からみて、すごく間違っていることであったとしても、私自身が否定することはなかったんだ、私にとっては真実であっていいんだと思えたから。

違和感を覚えた自分に違和感を覚えなくてよくて、嬉しかった。

(なんの言葉遊び・・・笑)

 

けど、そうやって、違和感に承認を自分で与えて、

違和感に、現実世界の中で、居心地の良い居場所を与えてあげようとするたびに、

周りとの間に、流れていく通常の日常との間に、

普通のみんなとの感覚や表情、会話、コミュニケーションとの間にどんどん乖離が生まれていって、頑張って集団に溶け込もうとしている私自身を、私の違和感が裏切って、「お前はここに本当はふさわしくない過去の持ち主だよ。だって、こんな違和感を抱いてこの場にいるんだから」と、その違和感自身が証人になってしまっていったの。

 

例えば、友達を飲み会に連れて行ったら、その子が、学生時代の私の失態を暴露してしまって。その話のおかげで、飲み会自体は大盛り上がりになって、みんなもその子もすごく楽しそうで。でも、私自身は必死で愛想笑いをして、心で大泣きして。ただただ、いじられるだけになって。辛くて、悲しくて、でもそれを言い出せなくて、帰りの電車で一人になった途端、涙が滲んじゃう、みたいな。

 

もう2度とその子に会うもんか!

 

ーーと思うのに。

 

また会っちゃうの。

そして、会うたびに、迎合しちゃうの。

 

だって、その子に逆らえない。てか、なんか好きだから。

好きなのか、憎いのか、もうわからないから。

 

だって、その子の方が正しいから。すごいから。輝いているから。

私には正しさはないから。

 

強烈な憧憬と嫉妬は適切な拒絶感を感じさせないぐらいに煌めいて、魅惑的で、甘美ですらあって、本当は嫌がっているっていう自分の感覚すら曇らせるんだ。

 

 

結局ね、「何かを大切にしよう」と、意固地になって思うこともまた、すごく危険なんだってことなんだな、私の場合。

 

だから、とにかく、何も考えず、何もラベリングせず、目の前のやることをやるのがいい。

そういうのがいい。

 

そりゃ、色々と違和感を覚えることもあるよ?

 

なんだそりゃ。

そりゃないでしょ?

えー、そうする?

いっといてよ、先に・・・・

ムカっ。

 

色々あるけど。

 

「違和感」ってラベリングをつけても、良いことない。受け入れても良いことひとつもない。

それより、

 

今日の私は、ムカっ、を流したよ? えーっ、と思ったけど、お互い様だよね、と思えたよ?

そうやって、自分をヨシヨシしてやる方がずっといい。

 

多分、私も、そうやって、誰かに違和感を抱かせながら、スルーしてもらってきていると思うから。

 

今日の鍋は、鶏塩鍋。

豆腐も春菊も、うどんも買い忘れましたが、違和感は自分でスルーしました。

 

これもまたよし、ということで・・・笑。