探しにいくよ

ひとりごと。

痛みなんていらない

こんばんは。

 

今日は、朝から頭痛がきつい。

鎮痛剤を飲んでも、全然効かないんですよね。頭痛に効くっていうストレッチとか、休息とか、色々対処をしてみましたけど、ダメ。

 

ま、こんな日もあるよね。

 

でも、頭痛がしようが、なんだろうが、休めない。

そりゃあさ、どうしようも無くなったら、きちんと謝罪して、理由を申し出て、休ませてもらうけれど。

我慢できるなら我慢する。

 

ただね。

これって、コントロールできてんの? できてないの?

 

ーーって、不安にはなるんだ、正直。

 

頭痛はきつい、それは本当。

でも、それなりに頑張れる。

 

だけど、もしかしたら、自覚していない私のどっかは、頭痛によって致命的なダメージを食らっているかもしれないわけで。

重大な病気って意味じゃないよ。

 

痛いのを堪えて頑張っていると、その行動をポジティブに変換しきれなかった私の未知の部分が、私自身の未踏の部分に致命傷を残していないかが不安になってしまうの。

 

「ミステリという勿れ」で、整君が、

子供は固まる前のセメントのようだから、不用意なものを落としちゃダメって言ったよね。

落とされたものが、そのまま形になって残ってしまうからって。

 

この言葉、すごく、響いた。

というか、胸に痛かった。

 

数年前、レリゴーって歌が流行って。

「ありのままの自分を愛そう」「そのままのお互いを受け入れていこう」

みたいな風潮が広がっていった。

 

でも、「ありのままの自分」って、どこにいるの?

 

私の子供の頃の写真は、赤ちゃん時代も、子供時代もあるけど、

記憶が残っているのは幼稚園頃。でも、セメントはそのずっと前から固められているはず。

 

だったら、ありのままの自分って、自分でも知らない自分なの?

生まれた瞬間の自分?

生まれる前? 胎児? 受精卵?

 

そう考えると、ありのままの自分でいたい、って考えること自体、意味ないなって思う。

 

だって、私自身が「ありのままの自分」を知らないんじゃん。

 

その「ありのままの自分」を探せばいいよ、って話もあるのかもしれないけれど、それだって、例えば、今日の頭痛を我慢するみたいに、他のことを頑張っている中で、あるいは、呑気にグータラしている中で、自覚もないまま、自分自身の「ありのまま」とやらにセメントを壊しているのかも知れないのなら。

 

花畑を踏み荒らしている人がいたら酷いと思う。

でも、「わたし」をずっと、ずっと、ずっと、踏み荒らしてきたのは、周囲の環境でもなく、他人でもなく、私自身なの。

 

それを、私は知るべきだから。

 

他者がどうであれ、張り巡らされた環境がどうであれ、私は自分のセメントを破壊した。大人になっても破壊した。そしてボコボコになった。その歪な自分を「ありのままの自分」として受け入れることを拒絶して、どこか、別の、麗しい花畑に「ありのままの、綺麗なセメントで、欠損のない、ボコボコになっていない自分」がいて、こっちを向いて微笑んでいると思っていた。

一度も、他者のセメントに向けて石を振りかぶったことはございません、と言える綺麗な私の手で、こっちにおいでと招いて欲しかった。

 

そういう自分を受け入れることから、始まる。

 

 

今は、鎮痛剤が少し効いて、白湯を飲んで、ほっと、一息をつけている。

 

そして思うの。

「ありのままの自分」でなくていい。

 

頭痛のない暮らしの方が楽って・・・。

 

痛みを耐えた先に、生まれる忍耐強さはある。胆力も得られる。他者の痛みへの共感も優しさも得られる。それはもっともだよ。

その前に、頭痛を起こさない生活を心がけられるなら、その方がずっといい。例えば規則正しい生活、栄養に気をつけた食事、運動、苦手だから、階段を昇り降りするだけで違うかも。あとは、考えすぎないように、好みの本やドラマを見ること。

 

私の場合、大抵の頭痛は考えすぎから起きる。

 

だから今日は、これで寝ます。

おやすみ!