こんばんは。
今日は100均に行ってきました。
先週まで、入ってすぐのところに、クリスマスのメイン売り場の中でも、
とっておきと思えるコーナーがあったのに、
今日は別のコーナーになっていました。
まだ11月なのに・・・ね。
びっくり。
モールとか、他の商品の売り場は維持されていたので、
まだまだクリスマスものを売る気はあるのだと、なぜか安心したけど。
それにしても早い。
人気商品だったのかな?
それで早く売り切れちゃったから、仕方なく、他のもののコーナーにしたとか?
それならわかる。
でもね。
行事に追い立てられているみたいで、少し気が焦っちゃう。
子供の頃は、クリスマスは、ゆっくりと近づいてくる気がしていた。
パーティなんてする家じゃなかったし、
ケーキすら食べた思い出も、あるような、ないような、そんな感じだから、
別に楽しみな日じゃなかったけれど。
それでも。
「特別な日」が来る。
そんな気だけはしていた。
いい子にしていたら、サンタさんが来るなんてファンタジーを、いつ脱出したのか記憶にない。気がつくと、サンタさんは、配慮深い大人の仕業だって理解して。その配慮も「大人」の大きな慈しみと呼ばれる、将来のための備えのような色合いを帯びてきて。だから、贈り物も全然、欲しいものじゃなくて。
それでも。
欲しいものじゃなくても、全然欲しくないものでも、
忙しい大人の誰かが、ある時間を捧げて「私のために」贈り物を選んで、買ってきてくれた、
その事実が嬉しいと思えたの。
トナカイのそりをひいたサンタさんという幻想のおじいちゃんではなく、年末の忙しない時間を切り取って準備してくれた人に、「もっと他のものが欲しかったのに、なんだよ、これ」と、思春期らしい言葉には出せない複雑な感謝を隠してコンフリクトを展開したりして。
クリスマスが「特別な日」になったのは、その「大人の配慮」と「嬉しくもない贈り物を受け取る経験」を、ほんわりと、でも、しっかりと、自覚した10代の頃だったと思ってる。
町中がクリスマス商戦?
値上げも多いね。
何が安く買えるかな? どういう行動を取れば賢いかな?
与えられている金銭を、正しく、効率的に使うのは、絶対に大切。
でもね。
もしも、クリスマスがなかったとしたら?
年末のこの行事がなかった世界を、私は望むのかなってね。
そうしたら、抱える慌ただしさは半分以下に減るよね。人混みでごった返す街に繰り出して、関係する人々を喜ばせるための贈り物選びで頭を悩ませる必要もないし、荷物を両手に抱えて、疲れた体を引きずって家路に着くこともない。
送った品物を相手が喜んでくれるのかどうかで、気を揉むこともない。
きっと自分の生活と感情のコントロール仕舞いをすればOK!の清々しい師走になる。
けれどね。
その世界では、私自身が贈り物をもらえることもない。
予想外の喜びをもらえることもない。
「こんなもの、どうやったら選ぶの!?」
最近、捨てることにフォーカスが当たって。
何かを買う時も、自分で選ぶと、「ずっと使えるものか?」「捨てる時は捨てやすいか?」「サンクコストは?」とか、ぐるぐる考えてしまう。
そうして、気がついたら、効率以外で選んだものがほとんど家になくて。
贈られたクリスマスプレゼントは、自分で選んだ、自分の大好きなものではないけれど、自分の大好きなものがわからない私にとっては、私のためを思って誰かが「これなら喜ぶかもしれない」「これなら驚くかもしれない」「これなら使うかもしれない」「これなら食べるかもしれない」と、色々考えて、時にはあっさりとAmazonポチして、とにかくなんでも、そこに私という人間を一瞬でも思い浮かべて選択してくれたものは、無条件で尊い。
嬉しすぎるでしょ?
自分で選んでないものが、もらえるんだよ?
こんな機会、一年で、そんなにある?
もしも、クリスマスがなかったら、贈り物を送り合う習慣がなくなって、それは、とてもクールで、シンプルには違いないけれど、そういった状況が必要なら、いつだって手に入れられるでしょ? 全ての人に今年は贈り物を送りませんと言えばいい。その勇気が私にあるのならだけど。
結果的に、その勇気がないから、私は毎年贈り物を交換している。
それは決して悲観的なことじゃない。
私は勇者になれないから、贈り物をし合っているわけじゃない。
それは勇気がないのではなく、私自身すら知らない心の奥底から生じた「あの人と来年も繋がっていられますように」という願いなのだから。
だから、「行事に追い立てられるようだ」と、これからも街に出て、店を見るたび思ってしまうならば、いっそのこと11月中に全ての贈り物を買ってしまおうと思う。
そうすれば、あとはクリスマスの喜びだけが、私を追いかけてくる。